ベビーシッターの事件から考える民間と行政の役割

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インターネットの仲介サイトを経由して
ベビーシッターを依頼し事件が起こったことを見ていて、

面識のない者へ依頼をした母親への批判があったり、
問題のベビーシッターへの批判があったり、
仲介サイトへの批判があったりと
混沌とした状況になっている気がします。

結局は、
個人シッターが融通が利きやすいという点、
そして何より代金が安いという現実が大きいところとなっています。

お金と命のどちらが大事?
という議論も見かけたりしますが、
結局は「人」の問題が大きいわけです。

仲介サイトは、
そういうことを特に重要視していないわけですね。

人を扱う仕事をするという教育もされない。
人を扱う仕事に対する理念もない。

そのような状態であったことが
一番問題だったのではないないかと思います。

 

問題が起きることでせっかくの価値が低下してしまう

さて、
こういった事件が起きてしまったことで、
行政がようやく動き出すことができます。

特に問題が起きていない状況では、行政は動きませんよね。
問題がないとされているんですから。

今回も何か対策を施す可能性は高くなります。

つまり、
利便性は悪くなったり、代金が安くなくなったり。
その代わりに、登録をしっかりするといった安全性が上がったりするわけです。

そもそも利用する人にとっては、「利便>安全」かもしれません。
利便性が高いことに価値を見出していたと思います。

そのため、行政がなんらかの対策を施し、利便性というものが損なわれた時、
利用する「価値」というものがなくなるものとも言えるでしょう。

事件が起きたことで、
もはや利用する「価値」というものがなくなったとも言えますが。

 

行政にまかせてもうまくいかない

教育という面が学校となってしまっているため、
子供の政策に関しては、大きな縦割り部分と言えるでしょう。

厚生労働省と文部科学省の双方で交わりのない政策が行われているわけです。

 
また、子供に関する圧力団体が弱いという面も否めません。

行政は議員が思い描くことを実現する機関と考えてもいいでしょう。

ちなみに議員は抽象的な話をして、行政が具体的に実現する
というイメージです。

さて、そういう構図なため、
選挙の際、「票」というものに全然つながらないため
圧力が弱いということになります。

つまり、議員の興味関心の外にあるわけです。

議員にとっては、
子供という小さな票田よりも
高齢者というより大きな票田の方が大切なわけですから。

 
そのような状況も手伝って、
行政の子供に関する政策で本質的な考えというのは、
「お金を出すこと」
が需要な政策に位置づけられてしまう始末です。

 
本質的・根本的な対策ができるのは間違いなく民間です。
行政にはできません。

となると、
民間が本質的・根本的な対策を行った上で、
間違った方向に動きだしたときに正常に戻せるシステムも同時に働かせておく
ということを最初から考えておくことが重要だということです。


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